清水沼時代のカラーズって、どんな感じ?

こんばんは。

ちょっと振り返るとカラーズも30年目に突入しているとふっと思い出した加藤です。

今日はちょっとだけ、清水沼時代のカラーズの事を書いてみようと思います。

結論から言うと、清水沼の時代がなかったら、今はなかったなぁ〜という事です。

以前のブログでも、誤字脱字の本当に読みにくいカラーズの生い立ちを書きました。

この際、誤字脱字は許してくださいね!

そもそも、カラーズは当時、実家のアパートの6畳と4畳半のアパートに住みつつ、4畳半の部屋でエアブラシを吹き、クリヤーに関しては実家の米屋のとなりの、おじいちゃんが作った掘っ立て小屋。

トタンで覆われた小屋に、裸電球ひとつの灯りのもとで塗装してました。

今では考えられません!なかなかファンキーなスタイルです。

というか仕事になりません。

そんな環境の中、当然仕事も直ぐには入ってきませんし、入ってきてもその環境で制作するものは、なかなか生産性も悪く、徹夜しても頑張って作ってもなかなか生活することは出来ません。

そもそも、独学で学んだエアブラシにデザインです。まだまだプロとは呼べるものでもありません。

今思えば、恥ずかしくもあり、情けなくもあり、切ない気分と、悔しさの清水沼の時代でした。

でも、そんな時代でも今思えば、やる気と意地と、ダサいデザインしか作れない自分への苛立ちと悔しさで、来る日も来る日もペイントとデザインをし続けました。

それでも、なんとかしたくて、カラーズの名前を知ってもらう偽、たった一人のお客さんに、「想像以上でした!」と言っもらうために、ひたすらサポートし続けました。

勿論、お金ももらわずにサポートです。来る日も来る日も徹夜して作り続けます。

そんな生活を3年間?それ以上続けていきます。(どうやって生活していたんだろ〜?)

それでも、がんばっても、頑張っても、生活は苦しくお金もなく、常にギリギリの生活です。

未来も見えなければ、心も折れそうですし?というか折れます。

勿論。実家のアパート代も払えませんし、電気代も水道代、電話代も、たまに、ほんのちょっと雀の涙程度しか払えませんでした。

それでも、何も言わず自分たちの体の心配をしてくれて、「何も言わずに、」「これ食べさいっ!」「いいがらたべさいっ!」と無理やりご飯を作ってくれてた母がいました。

何も言わずに、愚直にただひたすら真っすぐに朝から晩までひたすら働いていた母が自分の手本ですし、心折れながらも、なんとか30年目に突入できたのは、なんにも言わずに見守ってくれた方々のお陰です。

その環境は、始まりはたった一人の応援してくれる人がいたからこそ今のカラーズがあり、お金がなくても見えないところでバックアップしてくれたり、

信じて応援してくれた場所と環境と人が清水沼時代のカラーズを育ててくれたんだなぁ〜と思った本日でした。

本日はこの辺で!

また明日!

PS 清水沼時代の一番好きだったのは…やっぱり母が作るチャーハン!また食べたいなぁ〜!

 

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